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各建物の特徴と説明Feature

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国宝 元興寺極楽堂(極楽坊本堂・曼荼羅堂)

是心会

東室南階大房(僧坊)の三房(室)分を寄棟造、本瓦葺六間四面の聖堂に改造されたもの、僧坊の一室(極楽坊)の身舎部を内陣とし、東妻を正面として前面向拝とした鎌倉時代新和様の堂々たる建造物です。
奈良時代の往生人智光、礼光両法師の禅室として、また、百日念仏講衆の往生極楽院として極楽堂、智光法師感得の浄土曼荼羅が祀られたので曼荼羅堂とも呼ばれました。
南都における浄土教発祥の聖地として古来有名な堂宇です。
春日厨子 一基、須弥壇 一基 、閼伽棚 一流

 

国宝 元興寺禅室

御祈祷護摩

元興寺旧伽藍の東室南階大房(僧坊)遺構、四房(室)分を伝えています。切妻造、本瓦葺四間四面の簡素ですが重厚な趣があります。
僧侶が起居し、学修した官大寺僧坊の遺構で、平面図や雰囲気をよく保っています。建築様式としては鎌倉時代の大仏様を示していますが、構造材は奈良時代以前の古材を多く再利用されています。中世には春日影向堂とも呼ばれ、近世に客殿、近代には学校舎にも使われてきました。南西1間は影向間・須弥壇・宮殿厨子、北西1間は中世僧房として使われています。

影向間(ようごうのま)

国宝禅室西南の部屋を影向間(ようごうのま)と呼び、宝庫のように使われてきました。
影向間とは、『元興寺別院極楽坊縁起』によれば
その昔、智光曼荼羅が禅室の経蔵(経典を納めた部屋)にあったとき、弘法大師空海は、毎日経蔵で勉強をしていました。
ある日、空海が智光曼荼羅を拝んでいると、春日大明神が影向(ようごう)されたことに気づき、春日曼荼羅を描いて、勧請(かんじょう)しました。
そして、空海自らの影(姿)を彫りその像も、その部屋にとどめました。
こうして、その部屋のことを、影向間(ようごうのま)と呼ぶようになりました。
『元興寺別院極楽坊絵縁起』と空海が自らの姿を彫ったとするお像は、現在法輪館にて収蔵しております。あわせてご覧ください。

 

県指定文化財 小子坊(極楽院旧庫裡)

修正会

もと禅室の北側にあった、東室南階小子房の一部を改築して、北厨房あるいは台所と称されました。 寛永3年(1663)極楽院庫裏として改築されましたが、昭和24年(1949)本堂の南側に移転増築して極楽院保育所建物とし、さらに昭和35年(1960)現位置に移動して復旧されました。古代僧坊の沙弥寮から近世寺院の庫裏へと変化した歴史、ならびに建築物としての価値を有するものです。

 

泰楽軒 (茶室)

節分会

小子坊の西側に位置し、四畳半の茶室と三畳の水屋からなり、元興寺の古材と川崎幽玄氏の指物で構成されています。川崎幽玄氏の古材と春日杉への愛着が、伝承して磨きあげられた指物技術と相俟って見事な茶の空間となっています。
露地庭も植栽は四君子を配し、石組みは奈良時代の元興寺鐘堂礎石をはじめ鞍馬石、白川石などを集めて見応えのあるものとなっています。

通常は非公開
見学・使用したい方・・・要予約 (元興寺までご連絡ください)

 

重要文化財 東門

春季彼岸会

元興寺極楽坊の正門として、応永年間に東大寺西南院四脚門を移建したことが記録から知られています。鎌倉時代風の立派な門です。
元興寺東室南階大房が極楽堂と禅室に大改造され、東向きの中世寺院として性格を改め、後の元興寺極楽律院(南都極楽院)へと変遷してゆく契機となるものです。興福寺大乗院門跡の指図による復興事業の一環であったと思われます。

 

史跡 元興寺境内

花まつり

元興寺旧伽藍のうち、僧坊と講堂の一部を伝え、中世には元興寺極楽坊、近世には南都極楽院と称された寺域です。
他には、史跡元興寺塔跡(東大塔院五重塔の基壇)、史跡小塔院跡(西小塔院の一部)が国の指定を受けていますが、大部分は街路、民家の下に埋もれています。なお、鐘楼跡の礎石1基、講堂跡の礎石3基を発掘地から運び入れ保存しています。
また、昭和63年に整備した浮図田(ふとでん)(石塔、石佛群)には、興福寺大乗院門跡墓所に関連して祀られた、中世から江戸時代にかかる供養石造物1500基が保存されています。
毎年 8月23日、24日には地蔵会万灯供養として灯明皿による総供養がなされ、ならまちの夏のおわりを象徴する祭りとなります。

 

元興寺の瓦

中興開山忌

極楽堂の北流と西流、禅室の南流の東側の屋根瓦は、一般の本瓦と少し趣が違います。つまり、丸瓦も平瓦も重なり合って葺かれています。飛鳥時代(法興寺創建)の古式瓦を伝えています。法隆寺玉虫厨子の屋根表現はこの丸瓦を意識しています。他に、京都東寺の講堂屋根の一部、深草宝塔寺の多宝塔下層、貝塚孝恩寺の釘なし堂、大分富貴寺大堂などにも残っています。
元興寺の場合、解体修理の結果、使用可能な古瓦(飛鳥時代からの瓦)を集めて使用していることがわかっています。また、極楽堂西南隅、禅室南東隅には古代の軒平瓦が残っているのも注目すべき箇所です。

 

かえる石

かえる石供養

元興寺の境内北側にあるガマガエルのような石は、古くから有名な奇石で蛙石と呼ばれています。現在この蛙石は、以前にかかわった有縁無縁一切の霊を供養して極楽カエルへ成就しています。極楽堂に向って誓願をたてた極楽カエルは、今や「無事かえる」「福かえる」衆生の願いを聞いてくれます。
毎年7月7日にかえる石供養を行っています。
伝えによりますと、この蛙石はもと河内の在所の川縁にあったものを、太閤秀吉が気に入り、求めて大坂城内に移したものだといいます。また、大坂城落城の折には、この蛙石の下に淀君の亡骸を埋めたという説もあります。
落城後、いつの頃からか大坂城のお堀端乾櫓に向う隅に移されました。その頃、この蛙石には奇怪な力があって、蛙石から堀に入水する人々が続いたり、堀の身投げして行方の知れぬ人も必ずこの蛙石の基に浮かんでくるとか、不思議なことがよく起こったそうです。
人々から恐れられていた蛙石は、第二次世界大戦の後、行方不明になっていましたが、昭和33年にご縁があってこの寺に安置されるようになりました。現在は、国宝極楽堂に向って佇んでいます。
中国では主に、太陽には鳥を、月にはガマガエルとウサギとを描いています。ガマガエルはもともと水の精と考えられていて、雨をふらすために月にいるのだと信じられていたようです。
カエルは、傲慢さと愛嬌があり、動静両面が印象的な生き物です。蛙石と太閤秀吉、淀君、お堀にかかわる伝説などうなづけるものもあります。

 

万葉歌碑

肘塚不動尊供養


本田義憲先生監修 解説
(奈良市に万葉歌碑を建てる会専門委員・奈良女子大学名誉教授)

天平10(738)年の歌。飛鳥から移った「平城(なら)の明日香」の「元興寺の里」はロングスカートの才媛たちの寺詣ででも華やぎました(巻六992)。僧団には、三論学の学匠、浄土曼荼羅説話などにものこる智光たちもありましたが、この歌は、その中のひとりが「独覚多智」でありながら、人にみとめられない才学を自嘆した、という一説を左注します。「独覚」は、独り覚(さと)る、必ずしも簡単でない漢訳佛典語ですが、いま特に問いつめる必要もないでしょう。
白珠は、真珠貝の秘める珠、ひろくは白く美しい石や玉、恋歌ではしばしば女人の譬喩、いまは作者自身、その秘める世界を譬(たと)えます。白珠の真価は人に知られない。人は知らなくても、ままよ。自分さえよく知っておれば、人は知らなくてもままよ、かまわない。
「人知らずして慍(いか)らず、」(『論語』)とでもいうのでしょうか。
歌の形は、旋頭歌(せどうか)577・577。しばしば問いと答えと相対し、あるいは類句を繰り返しても謡われましたが、天平時代には流行が去っていました。いま、その古い形でしきりに同音同句を繰り返すのですが、しかし、「白珠」「知る」は、古い恋歌に女身を得るという意味に使った表現の型を離れて、知的に知るという新しい意味に転じました。「よし」は原文それぞれ「縦(よし)・任意(よし)」、人の判断、みとめたくないそれをかりに受け容れながらも、心なしか自問自答的に自身の思いにうなづき、執拗にそれを通そうとしています。
天平僧団知識階級内部の歌。いま、何はあれ、元興神(がごぜ)の鬼をめでた舞わせてもみましょう。

 

獅子国型仏足石

地蔵会

境内南側に石塔・石仏を並べた浮図田(フトデン)の正面に、75㎝四方・15cm厚の庵治石を陰刻した佛足石が据えられています。
佛足石は、古代インド仏教圏で仏像無き時代の、仏陀そのものを象徴する、生きた釈迦の両足尊として信仰されました。
本来、信者は足跡を両手で仰ぎ、頭を付け礼拝したといいます。手を触れるだけでも有難い功徳があると信じられてきています。日本では、釈尊信仰や戒律の復興期に造立されている様で、今がその時とも考えられるでしょう。
獅子国(スリランカ)の佛足石は、足跡に聖なる紋章を表し、大傘が差し掛けられるのが特徴的です。スリランカ国と当寺との有難いご縁と深い友好関係を記念して開眼供養されました。造立の経緯は佛足石側面に刻まれていますが、再録すれば次の通りです。

  • 奉造立獅子国型佛足石一躯
  • 祈念日本スリランカ両国友好親善
  • 為コロンボパパの会関係物故者追善菩提
  • 祝マヒンダ社会福祉センター創立30周年記念
  • 祝壬辰華甲祈念
  • 維時平成24 2012年10月吉日
  • 真言律宗元興寺住職辻村泰善
  • 大工西村太造
  • 図師佐藤亜聖
  • 梵字キャ・カ・ラ・バ・ア 和南
 

 

浮図田

秋季彼岸会

元興寺を訪れると、まず目に付くのは境内に整然と並べられた石塔でしょう。これらは近年まで禅室の北西部石舞台に積み上げられていたものですが、昭和63(1988)、現在の形に並べなおされ、浮図田と呼ばれています。ちなみに浮図とは仏陀のことであり、文字通り仏像、仏塔が稲田のごとく並ぶ場所という意味です。これらの石塔には様々な形態のものが存在します。まずはその種類を見てみましょう。
もっとも目に付くのは5つの部品を組み合わせて造る「五輪塔」です。五輪塔は密教の教義(おしえ)をもとに造りだされた塔で、地・水・火・風・空という宇宙を構成する五大要素を体現し、大日如来と阿弥陀如来を塔の形で表したものです。
次に、数は少ないですが重要な塔として「宝篋印塔」があります。これは10世紀に中国で盛んに造られた金属製阿育王塔に起源を持ち、屋根の四隅に隅飾りと呼ばれる突起があることを特徴とします。功徳(ご利益)のある重要な経典、『宝篋印陀羅尼』を納めたとされることから宝篋印塔と呼びます。
さらにこれら2つの塔の形を舟形の碑に浮彫や線刻したものを舟型五輪塔(宝篋印塔)板碑と呼びます。組み合わせ式五輪塔や宝篋印塔が鎌倉時代から戦国時代に多いのに対し、この板碑は戦国時代から江戸時代前期に多くみられます。このほかに箱形の枠内に阿弥陀や地蔵を浮彫した地蔵石龕仏、自然石に文字を刻んだ自然石板碑など様々な種類の石造物が浮図田以外にも境内各所に置かれています。
さて、これらの石塔類にはいずれも「道意」や「妙空」など僧侶の名前が刻まれています。中世の元興寺は興福寺大乗院の菩提寺墓所の1つとなっていたので僧侶の石塔が多いですが、臨終にあたって法名をもらった僧侶以外の人も含まれます。また、なかには「逆修」と刻むものも見られますが、これは生前に自らの極楽往生を願って石塔を建てたものです。当時、石塔を建てるためには大変な費用がかかったものと考えられ、こうした逆修供養ができる人々はかなりの富裕層であったといえるでしょう。
このように元興寺には多種多様な石塔類が存在していますが、この中には通常墓地で見かけるような江戸時代以降の方柱状のいわゆる「墓石」がほとんどありませんが、これは江戸時代前期に元興寺が徳川家のための祈祷を行う寺(御朱印寺)として指定されたことで、通常の町民の墓寺として機能しなくなったことによるものでしょう。このように何気ない石塔類の中にも長い元興寺の歴史が凝縮されているのです。

 

影向桜

幽玄忌茶会

元興寺旧伽藍には隠れた桜の名所があります。1つは元興寺影向桜。国宝禅室に桜花舞い散る姿は、まさにいにしえの春を彷彿させてくれます。

 

旧鐘楼礎石

秋季特別展

小子坊の北側には、鐘楼の礎石が置かれています。これは昭和56年(1981)に中新屋町で発見されたもので、柱座中央に突起を持つものです。

 

旧肘塚不動堂石造物

佛足石供養

東門駐車場南に石碑や石仏などの石造物が並んでいることにお気づきでしょうか。元興寺の石造物は大半が浮図田にありますが、単独で並べられていることを不思議に思われた方もいらっしゃるでしょう。これらの石造物はもともと元興寺にあったものではなく、他所から移されたものです。
昭和11年(1936)、元興寺から南に1kmほど離れた奈良肘塚町にある工場敷地に、新しく不動明王をお祀りする不動堂が建てられました。ここには近隣の岩井川や、南京終町福寺池などに散在していた石造物が運び込まれ、まとめて安置されることになりました。ところが約70年たった平成14年(2002)、工場を経営する会社の変更に伴い不動堂が撤去されます。そして行き場を失った石造物は元興寺に託され、安住の地を得ました。現在も肘塚町の方々を迎えて毎年7月28日には供養を行っております。
これらの石造物は室町時代から江戸時代のものが大半で、故人の供養を願った石仏や供養碑が中心ですが、なかには興味深いものも見られます。「南無阿弥陀仏」と書かれた六字名号碑は、天正7年(1579)に52人の講衆と呼ばれる念仏供養の寄合によって作られたもので、戦国時代の奈良にこうした宗教組織が町単位でできていたことがわかります。また、慶応4年(1868)の大峰山登拝碑は、奥田屋平蔵という人物が大峰山に50回登って参拝した記念碑です。いずれもかつての信仰のあり方を知る貴重な資料です。このように元興寺には参拝者だけでなく多彩な信仰資料も集まってくるのです。

 

旧講堂礎石

佛足石供養

法輪館の北側に並ぶ3基の礎石は、平成10年(1998)に奈良市教育委員会が中新屋町で発掘調査を行った際に発見したものです。礎石は江戸時代の初めに穴を掘って埋められていましたが、出土場所からすると、講堂に使用されていたものと考えられます。いずれも上面に直径80~90cmほどの柱座を持ちます。礎石の上には柱座と同規模の太さ80~90cmもの柱が立てられていたと想定でき、講堂がいかに立派なものであったかを知ることができます。

 

1300年つづく、はじまりの地。
奈良の国宝・世界文化遺産。