元興寺の大師信仰
 大師信仰とは、弘法大師空海に対する追慕と、崇敬の念が信仰にまで高められたもので、庶民(上下の身分に関係ない)信仰のひとつの典型でもあります。
 日本の真言宗開祖である空海(774~835)大僧都は承和2年高野山で遷化(これを入定といい、生きつづけていると信仰される)し、天安元年(857)に大僧正を追贈され、延喜21年(921)に『弘法大師』の謚号を賜りました。そして、人々から、「南無大師遍照金剛」と唱えられ、拝まれ、「お大師さん」と親しまれる『ほとけさま』となりました。
 つまり、空海は僧綱(朝廷)で認められた真言宗の祖であるだけではなく、大日如来から、金剛薩埵に相承され恵果和尚より八祖として密教の伝燈大阿闍梨のひとりというだけでもなく、「お地蔵さん」や「お不動さん」と同格のいや大日如来そのものとする信仰なのです。恐らく、この信仰は徐々に深まり、広まっていったのでしょうが、時々の唱導者がおり、後見の高貴な人や、賛同者がいた事でしょう。そして、記念的節々に、歴史を遡って信仰の軌跡をまとめた文物を創ってきたのでしょう。
 歴史的事実と信仰的真実が混ざり合っていることも、庶民信仰の典型的特徴であります。
 元興寺と空海との歴史的な関係は、空海の東大寺戒壇での授戒会に戒和上元興寺泰信が存在します。泰信は鑑真和上に同伴して来日した唐僧だとされています。
 ついで、高雄山寺(神護寺)での「潅頂歴名」にある太僧に元興寺賢榮・泰範・延豊・圓璟がいます。なかでも泰範は伝教大師最澄の愛弟子で後に弘法大師空海の弟子となり、両大師の不仲を引き起こす要因となった学僧だとされます。
 また、空海著の『性霊集』には、元興寺護命僧正の八十歳祝賀詩、元興寺中璟のための赦罪表があり、元興寺との関係深さが感じ取られます。
 なにはともあれ、南都仏教と真言宗の関係は、天台宗には対立的であるのに対して、友好的であり、特に、三論宗と兼学であることが多いようです。『七大寺年表』によれば、元興寺僧の真言宗所属が目立つようです。
 京都・南都・高野山での大師信仰は、恐らく400年御遠忌、450年御遠忌を機に大いに高まっていきました。すなわち、祖師信仰・毘盧遮那仏(大仏)信仰・入定信仰・不動信仰など密教信仰の浸透によるものでしょう。
 元興寺の弘法大師像は恐らくこのような背景で450年御遠忌を記念して造立されたと思われます。
 江戸時代に編集された『元興寺別院元興寺極楽坊縁起』によると、禅室影向間の由来として、この部屋に安置された根本智光曼荼羅を観想していた空海は、そこに春日大明神が影向する事に気付き、明神を勧請して、絵図を残し、自らも自身の影像を残したとつたえる。すなわち、厨子入智光曼荼羅、春日鹿曼荼羅、弘法大師像が影向間に一緒に祀られていたことを示唆しているのです。  
 元興寺には、重文弘法大師坐像が収蔵庫に安置されています。この像は明確な記念銘が無いのですが、正中2年(1325)に大和般若寺などで頓写経された法華経等の銘文、康永4年(1345)の結縁交名状が像内納入されていました。しかし、像内に直接書写された般若理趣経、頭部に納入された舎利、それを包んだ愛染明王の印佛、頚部の観音経などの時代観、彫刻的様式から判断すると、さらに遡って南都仏師善春一派の弘安8年(1285)大師の450年遠忌にむけての作ではないかと推察します。
 いずれにしても、南都における弘法大師信仰の早い、そして重要な作品なのです。
 元興寺の薬師仏信仰
 「佛法元興の場、聖教最初之地」と称された飛鳥寺(法興寺)は、平城遷都に伴って、平城京左京四条七坊に移建されました。このため、故郷飛鳥の寺は本元興寺、平城明日香の寺は、元興寺(新元興寺)と区別され並存したといわれています。蘇我馬子による氏寺から聖徳太子に係わる官寺へと性格を変えたので、元興寺と改名されたともいわれています。

 本元興寺(法興寺)の伽藍は我が国最初の本格的なものであって、一塔・三金堂・一講堂の高句麗式伽藍であったことが確認されており、中金堂本尊が現存する飛鳥大仏(釈迦如来坐像)です。残りの東西金堂、講堂の三体の本尊がどのような仏像であったか定かではありません。しかし、当時の信仰形態あるいは、現存する飛鳥白鳳の仏像から再考すると、弥勒菩薩と薬師仏は祀られた可能性が高く、更に後世の顕教四仏と称される、薬師・釈迦・阿弥陀・弥勒が揃う素地があったと思われます。

 さて、平城の元興寺は移建と云いながら全く伽藍の型がちがう新築で、主要堂宇の金堂本尊は弥勒如来坐像、講堂本尊は薬師如来坐像でした。つまり日本仏教の元を興した記念の釈迦如来(飛鳥大仏)を本元興寺に遺して、新元興寺には当来下生の弥勒仏を根本の本尊とし、背後に現世利益の性格を持つ、過去成佛の薬師仏を大衆講讃の本尊としました。恐らく、藤原京、薬師寺の創建が象徴する当時の薬師信仰が浸透したことと、過去・現在・未来の三世諸仏に対する考え方が普及したためでしょう。いずれにしても、鎮護国家を願う官大寺において釈迦・弥勒・薬師・阿弥陀の四如来が主要な本尊であったと言えるでしょう。
 ところが、平安時代半ばを過ぎると元興寺は徐々に衰退し、金堂の弥勒仏・講堂の薬師仏は残念ながら室町時代の土一揆などで罹災し、消滅してしまいました。飛鳥時代以来の初伝を誇った元興寺三論・法相の教学が衰微する様を象徴しているかのようです。元興寺は内実ともに解体し、境内が侵食され街路化すると、残存した堂塔がそれぞれ独立して、庶民の信仰を得ながら命脈を伝えました。
 南大門跡の東側には中世頃に薬師堂が存在したらしく、今も薬師堂町という名が伝わっています。本尊薬師如来坐像は鎌倉時代の作で、近代に鳴川町の融通念仏宗徳融寺に移され祀られています。この像は、薬師堂町に現存する御霊神社の本地仏との関連も考えられます。
 東大塔院(五重塔と観音堂)の一面は、江戸時代末期に焼失するまで、元興寺を代表する名所でありました。現在、華厳宗元興寺を称するが、史跡元興寺塔跡を護って、観音堂本尊重文十一面観音と国宝薬師如来立像を伝えています。(いずれも奈良国立博物館寄託中)この薬師仏は、その由緒来歴を明確にしないのが残念だが平安時代初期の神々しい、量感ある一木造りの代表作として有名です。南都における密教と薬師信仰を考えさせられます。
 さて、現存する唯一の元興寺僧坊遺構は、旧元興寺東室南階大房の四房分を国宝禅室・三房分を国宝極楽堂に改築して伝え、旧講堂の一部を含む史跡元興寺極楽坊境内として保存されています。
 現在、真言律宗元興寺と称して、ユネスコ世界遺産『古都奈良の文化財』のひとつに登録された元興寺は、中世南都の復興期に、浄土教と密教の道場として再生発展した庶民信仰霊場でした。
 西国薬師霊場第五番元興寺の本尊は、旧太子堂所在の鎌倉時代快慶様式の寄木薬師如来坐像で、現在は総合収蔵庫に安置されています。この像の珍しい点は、光背裏面に、木彫の堂塔群を貼り付けて、あたかも東方瑠璃光浄土を表現しているところです。これは恐らく、極楽堂本尊の智光曼荼羅(西方極楽浄土変)を意識したものでしょう。
 また、極楽堂後戸の宮殿厨子には、中院町所有の木造薬師如来立像一群が祀られています。元禄年間の作で、小ぶりではあるが日光・月光両菩薩に十二神将を伴うもので、もとは会所の白山神社と並存した薬師堂に祀られています。南都奈良町の庶民信仰を示すものといえます。
 この様に、元興寺旧伽藍には多くの薬師仏が遺されており、これらは、古代の薬師信仰が神仏習合的な背景の中で、変遷しながらも、頼もしい佛として根強く庶民に伝えられてきた証といえるでしょう。
 西国薬師霊場が開創されて以降、元興寺は世界文化遺産に登録され、薬師講堂の礎石(三基)が発掘されて、収蔵庫の前庭に安置されました。更に中院町伝来の薬師像も国宝極楽堂内に祀られ公開されることになりました。正に、薬師如来の再到来か、見えない不思議な力を感じるものであります。
 元興寺の鬼 元興神(がごぜ)
 世界文化遺産「古都奈良の文化財」は八資産群からなっている。その中で元興寺は史跡元興寺極楽坊境内という狭い空間の、旧僧坊遺構である国宝極楽堂(極楽坊本堂)と国宝極楽坊禅室が登録されている。
 この寺は、我国最初の本格的伽藍である飛鳥寺(法興寺)が平城遷都により新築移建された官大寺たる元興寺の極一部にすぎない。かって平城京の東部外京に、興福寺と南北に接した大伽藍は、たび重なる罹災により姿を消し、この一画と史跡元興寺塔跡、史跡小塔院跡、そして寺に由来する奈良町の町名にかろうじて記録される程度となってしまった。
 この忘れ去られ様とした元興寺が世界文化遺産に登録されたのは、一重に戦後の文化財保護法による成果といえよう。多くの人々が地道な調査研究を進め、国庫を中心とした多額の資金が注入され、保存事業が行われて、真正性(オーセンティシイ)が証明されたからなのである。
 一方、伝説や習俗など無形の証明性に乏しい遺産がある。元興寺の伝説として巷間に流布し、変形して忘れられた鬼について見てみよう。
 最近余り見かけなくなったことだが、子供が舌を出し、目の下を指で押さえて、「アッカンベ」とか「ベッ」と言っておどける仕草があった。鬼事(鬼ごっこ)の古い型で、ベカコは、メカゴー(目掻う)あるいは目赤子ともあるが、「ベカコ」「ベッカンコ」といい、「ベッガンゴ」から変化したものかもしれない。「ガンゴ」は「ガンゴウ」からきており、「ガゴジ」や「ガゴゼ」と同様に元興寺(がんごうじ)から生まれた鬼の言葉のようである。
 淡路や徳島方面の古老によると、昔、泣き止まない子どもを論すのに、「ガゴジが来るぞ」とか「ガゴゼが来たよ」と言ったといい、元気の良い子供を「ガンゴ」とか「ガンボウ」と呼んだという。
 近世の風物や習俗を解いた書物には、子供を威すのに「ガゴジ」、「ガゴゼ」と言って、目を見開き、口を大きく開けて、鬼の真似をすることがあったという。「ガゴゼ」というのは、昔、元興寺にいた鬼のことをいうので、「ガゴジ」(元興寺)といったが、後に寺方が「ガゴゼ」(元興神)というようになったと識している。
 狂言「清水(しみず)」の中で、太朗冠者が清水寺に代参するのを断わる理由として、「ガゴゼが出るから恐ろしくて行けません。」というセリフが今も残っている。
 『大和名所図会』の元興寺の項には、「美しい女(おんな)を鬼ときく物を、元興寺(がごじ)にかまそというは寺(てら)の名」と言う狂歌が載せられている。
 つまり、元興寺は寺の名よりも鬼の代名詞として浸透していたことが分かるものである。
 元興寺の鬼伝説は、「日本霊異記」の道場法師の話がその原型とされる。道場法師は雷の申し子として誕生し、大力となって朝廷の強力に勝ち、元興寺の鬼を退治し、寺田の引水に能力を発揮して功績を上げ、後に立派な法師となったという出世話である。ところが、この中で鬼退治の場面がクローズアップされ、唱導師が解釈を加えて、鬼事(春を迎えるおこない)と結び付けられていったのであろう。元興寺では鬼を退治した道場法師を神格化して、「八雷神(やおいかづちのかみ)」とか「元興神」と称し、奇怪な鬼面を伝えている。農耕を助け、鬼を退治し、佛法を興隆した鬼神を象徴しているのだろう。
 古来、鬼は闇に隠れ、人を啖(くら)うものとされ、悪鬼邪気の象徴であり、追い払わなければ、春は来ないと言う。この鬼を退治するのに元興神のような鬼を超える鬼神(雷)の存在を想定したのだ。元興神のような鬼の御礼や屋根の鬼瓦、「なまはげ」などは、人が避けなければならない恐ろしいもの(悪鬼)なのではなく、悪鬼が畏れる存在(善鬼)なのだ。
 悪鬼は指が三本とされる。三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)の煩悩しかない。智慧と慈悲という大切な二本の指を亡失したのだ。鬼神のように活躍する人は、待望したいが似て非なる悪鬼の人は追い払わねば、春は来ないと言うことだ。
 いずれにしても、鬼は私も含めて誰かの中にも存在することも忘れないでいたい。
 元興寺では毎年節分会に、杉本健吉画伯考案の元興神(鬼)と作家の干支を描いた絵馬を授与している。元興寺の絵馬 元興寺の五鬼
 元興寺の地蔵菩薩信仰
 地蔵菩薩は、数ある佛の中で、最も庶民に親しまれ、長く信仰されてきた仏格を持つ。特に、仏教圏の中では、日本で、しかも南都(奈良)で流行した。それが、何から由来するのか、どう位置付けされた仏格なのか、元興寺の地蔵菩薩から探ってみよう。
 地蔵菩薩は、サンスクリットのキシチ・ガルバの訳といわれ、大地・子宮が語源だという。また、地涌菩薩という土地に根ざした、涌き出でる菩薩の存在も知られる。
 菩薩とは、菩提薩埵の略字で、菩提(さとり)を求める薩埵(ひと)という意味だ。つまり、如来(ほとけ)と成る人のことであり、如来に成る前の状態を菩薩という。しかし、大乗仏教では、菩薩行を重視することから、あえて如来と成らず、菩薩に留まる大慈悲の姿こそ重要で、信仰すべき『ほとけ』とされる。
 文殊・観音・弥勒など菩薩に対する信仰や、その造像が大乗仏教圏で流行し、我が国で盛大だったゆえんである。
 地蔵菩薩の遺例をみて、他の菩薩像との大きな違いは、声聞形とか比丘形と称される姿であることである。つまり、剃髪円頂で、袈裟をつける像なのである。また、宝珠と錫杖を持ち、クツを履くものが多い。内に菩薩の行を秘し、外に声聞の形を表すといわれる。これは実際の仏弟子、常に行動する僧侶を象徴しているのだろう。地蔵尊は如来よりも、貴族のような菩薩よりも、さらに近しい存在であることを示していると思われる。
 地蔵菩薩は、釈尊が涅槃に入った後の、弥勒菩薩が弥勒仏(如来)と成る間、二仏中間(無仏)の期間に、我々を導いて下さるのだという。また、末法の世には、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)のすべてを自由に行動でき、主に地獄を根城としているそうだ。つまり、どんな絶望的な世界でも存在し、導いてくれる頼もしい『ほとけ』なのだ。
 そのため、引路菩薩とも称される。錫杖を持っていたり、千体(無数)の姿で現れたり、閻魔大王の背後に存在したり、路傍に立っておられるのは、そのような理由からだと言う。
 中世の仏教説話『沙石集』に「南都には地蔵の霊験あまたおわします」とある。代表的なもとして、知足院・福智院・十輪院・いちの地蔵が上げられている。なるほど、現在でも奈良の各寺院に、個性的で魅力に満ちた地蔵尊が多く残っており、信仰が高かったことを示しているのだろう。また、町有仏や共同墓地の中や、路傍にも中世に遡る地蔵尊を見ることが出来る。この現象は京都と少し違う南都の特質のようだ。恐らく、春日社の第三神・天児屋根命の本地仏(仏教的な性格、お気持ち)、あるいは春日社全体(慈悲万行菩薩)が、地蔵菩薩の本願と同じであるとする思想なのであろう。
 元興寺には数多くの地蔵尊が残っている。まず、室町時代の宿院仏師定正作持ち物をもたない・印相地蔵、(志保屋の地蔵)があり、丸彫りのかわいい千体地蔵や板絵地蔵・板抜地蔵、印仏地蔵など重要有形民俗文化財指定のもの、石造地蔵、阿弥陀・地蔵併置像、五輪塔や宝塔に地蔵を彫るもの、地蔵の種字( )を刻む背光五輪塔などである。いかに地蔵信仰が盛んであったかの証左であろう。
 また、国宝極楽堂の後戸には水島弘一氏作のブロンズ製千体地蔵尊が新たに祀られているし、鵲町有・平安末作の木造地蔵尊などがある。
 昭和60年から63年にかけて、石塔・石仏を境内南庭に整然と並べ供養するようにした。名付けて、浮図田(ふとでん)、千五百余体の石塔・石仏群となった。
 永遠に供養されることを願って造立されたこれらは、いつしか本来の目的を失い、無縁の如く見なされた。しかし、改めて見直せば、その圧倒的な存在感に驚かされる。
 灯明皿を奉納する人々、灯芯を寄進する人々、油を注ぐ人々が、8月23日・24日に集い、総供養を行う。また、極楽堂では、全国各地から、この法事に協賛された知名士が揮毫された行灯にも明かりが点される。静寂の中で、灯明は、見えない何かを照らし出し、あやうい炎は、ご先祖と地蔵尊のぬくもり、いのちの存在を感じさせてくれるのだ。
 23日は、子供達の喜ぶ「夜店」がでる。24日は、日中から「まんぷく供養(プロ料理人の屋台)」があり、夜は、邦楽の奉納演奏がある。家族揃ってお参りください。
 元興寺の不動尊信仰
 元興寺は飛鳥時代より三論・法相の初伝を誇り、学問寺としての伝統を持ってきた。しかし、平安時代に空海が入唐求法されて後、真言宗が許可されると、積極的にこれを支持し、多くの真言宗末徒を輩出した。
 弘法大師空海の行状を見ると、まず、東大寺戒壇での受戒会には、戒和上として元興寺泰信の名が表われる。
 また、大師の『性霊集』には、元興寺護命僧正、仲璟師に対する熱い友情が感じられる。さらに、大師の師匠とされる大安寺勤操僧正と関連する文殊会を興した三論の泰善、伝教大師最澄の弟子でもあり、十大弟子のひとりとされる学僧泰範の存在も忘れがたいものがある。
 大師入定後も、聖寳・円行・常暁・道昌・隆海・道憲・泰舜・延鑑・圓照・玄朝・行圓・永縁・寛信・道寂等の金剛佛子が元興寺に所属しておられたことが伝わっている。つまり、真言密教の伝流が古くよりあったということである。
 元興寺に係わる不動尊については造像例の記述は見当たらないが、平安時代の図像集に、『飛鳥寺玄朝(源朝とも)』という絵佛師が登場する。飛鳥寺は当時の元興寺であり、南都の元興寺に所属した佛師であろう。玄朝は名人であったという。興福寺に現在伝わる国宝板彫十二神将像は玄朝の作であり、元興寺薬師講堂の旧蔵であるとの意見がある。つまり、玄朝は、仏像の活き活きとした姿をとらえて表現する能力が高く、その題材として当時流行の不動尊の表現について、注目されていたことを示しているのだろう。
ともあれ、不動尊は、真言密教行者の権化であり、願いを訊いてくれる特別な尊格だったのだろう。その詳細をみると、不動尊は、別名大聖不動明王、つまり、明呪(陀羅尼)を尊格化したものである。次に、不動尊の有難さは、祈願成就であり、その特異な供養行為(護摩供)の存在である。尊像(画像や彫像)と護摩壇があり、炎と煙が象徴的な、音と色と臭いの行法は、『心・口・意の三密行』や『想い・伝え・行い』の姿を実感させてくれる。
 不動尊の姿は、行者の熱い想いから、身色が、黒・赤・青・金(黄)で顕われたり、頂上に七沙髻や蓮花を見せ、弁髪に、宝剣と索を示して威嚇し、目や歯牙を特別に強調したりする。不動(無動)と云うからには、坐像が本儀なのだろうが、むしろ立像とする活動重視が本願なのだろうか。我国では、高野山南院の波切不動尊立像の縁起にまつわる信仰が尊重されてきた。

 収蔵庫に安置される不動尊立像は、玄朝様と円心様を示す日本的図像である。寄木風に彫眼、彩色に切金を多用するなど、藤末鎌初の様式を伝えている。
 奈良では、生駒山宝山寺(無動寺)が不動尊霊場として有名であるが、元興寺昭和中興開山泰圓和上は、生駒山の弟子であった。宝山寺中興開山は、延宝六年(1678)に登山した宝山湛海律師である。湛海律師は高野山や泉州大鳥神鳳寺で修行された密教行者の験者であったが、修法だけでなく、絵画・彫刻の作家でもあった。
 元興寺に伝わる伝智証大師作不動尊坐像はその作風から、湛海の初期作品とされるものである。湛海律師が、西大寺一門に入衆された時の第五十一代西大寺長老尊信春識和上が極楽院住持の頃に納められたものであろう。
 境内にある二躯の石造不動明立像は、一躰が禅室南側浮図田にあり、この像は光背がめずらしく五輪塔になった半肉彫像である。もう一躰は、東門南の肘塚石造佛群中央にあるもので、『元和元年(1615)、蓮花房』の紀年銘を刻んでいる。総像120cm、半肉彫で、線刻の火炎光背に、不動十九観を表現した力強い作である。
 これらの不動尊供養として、毎月二十八日に小子房土間護摩壇での供養、七月二十八日の肘塚不動尊供養、そして節分会(二月三日)の供養、柴灯大護摩供が行われる。
 元興寺の観音信仰
 奈良時代創建以来の元興寺における観音信仰は、基本的に学解仏教の中で培われてきたのであろう。が、「元興寺縁起」と「今昔物語」には、金堂の本尊弥勒佛には無着・世親の二菩薩と千手観音二躯、四天王像が脇侍として祀られていたとつたえる。また、「七大寺巡礼私記」によれば、中門に安置された中門観音の霊験があらたかであったことがわかる。この観音は十一面観音で孝謙天皇の本願で聖武天皇並びに光明皇后の菩提のために、長谷寺観音の余材をもって、稽文会、稽首勲が彫刻したと伝え、後に東塔院の観音堂に祀られたという。
 現在の華厳宗元興寺の本尊十一面観音像は、長谷寺式と称されるものであり、この元興寺塔址(観音堂)を通る街道は、興福寺南円堂(西国三十三所観音霊場九番)と長谷寺(同霊場八番)を結ぶ観音道(伊勢街道でもある)なのである。元興寺が衰退し、境内が市街地化してゆく中で、新たな信仰形態の観音信仰が町中に醸成されてくる。いわゆる奈良町に遺る観音像の多くは室町時代以降の二月堂観音講や、四国巡礼講に係わるものであろう。
 史跡元興寺極楽坊境内には、多くの石造品を伝えているが、観音像は一点だけである。しかも、この観音像は、伊勢街道沿いの肘塚町旧蔵の長谷寺式十一面観音であり、頭部は欠損しているが和泉砂岩のもので、江戸時代後期の作であろう。
 また、「本朝新修往生伝」の遊行者で伊賀聖と呼ばれた、元興寺僧の道寂が遺した一搩手半の聖観音がある。この観音は、古美術商が、興福寺千体仏、あるいは鰹節なぞと称する50センチ余りの像で、いかにも勧進聖に係わる藤原時代の多数作善思想が生んだものであろう。
 次に、聖徳太子信仰の中で、注目された如意輪観音の存在である。現在元興寺には、版本摺佛と寄木造りの像がある。版本は、恐らく中国宋時代伝来のもので、裏面に「貞応三年 女竹」(1224)の銘文が遺る。当時の表具の様を考える上でも重要な、国指定重要有形民俗文化財である。真言宗の小野醍醐流が、殊の外、如意輪観音念誦次第を重視し、基本としたり、聖徳太子の本地を如意輪観音としたことと無関係ではなかろう。
 一方、木造の像は、白木の壇像風で、女性的な優しさを感じさせるものである。西大寺の興正菩薩叡尊一門は、真言と律の普及、菩薩行と密教信仰の奨励を盛んに展開した、その中で、釈迦・舎利信仰、聖徳太子・弘法大師・如意輪観音信仰は特筆されるものである。
 元興寺に於いては、聖徳太子と弘法大師の信仰が文永、弘安期に、元興寺復興(元興寺極楽坊の独立か)と係わって高まった。が、西大寺二代長老慈真和尚(1231~1316)が元興寺復興のために、南都の南市本尊とした如意輪観音の存在が注目される。その後、南市は興福寺の南市に移り、本尊はえびす神社となっている。あるいは、この像が南市の旧本尊(14世紀作)だったのかも知れない。ともあれ、聖徳太子と弘法大師は如意輪観音と結びつき、元興寺を霊場とさせていたのだろう。
 近年の像としては、京都府鹿背山の彫刻家・水島弘一(1907~1982)作の樟材一木造りが本堂後戸、興正菩薩像(福地院蔵模)のうしろの厨子に祀られている。この像を原型として、ブロンズ像が数例遺されているが、元興寺が関係している老人養護施設「延寿」の祈りスペースの本尊はその一つである。また、水島弘一氏は、本堂後戸の千体地蔵尊(ブロンズ製)の作者でもある。
 元興寺の聖徳太子信仰

 聖徳太子(厩戸王)は、用明天皇と穴穂部間人皇女の子である歴史的実在の人物である。が、死後間もないころから、その偉人的な性格が誇張され、太子に対する尊崇の念が高まり、追慕の念が信仰へと昇華されたものである。『上宮聖徳法王帝説』や『日本書紀』を初め、『聖徳太子伝暦』、『日本往生極楽記』や『大日本国法華験記』に見られるように、太子は日本における最初の仏教者、祖師であると意識され、佛のように礼拝される対象となっていったのである。
 すなわち、「太子伝」という物語の普及、「太子絵伝」という仏教美術の展開、「太子像」という一種の仏像であり、祖師像を生んだのである。
 また、各寺院や宗門は聖武天皇、伝教大師最澄、弘法大師空海、理源大師聖宝の太子後身説、太子が観音の化身であり、我が国最初の往生人とし、あるいは、達磨の化身、阿弥陀の化身、法華経弘通の祖師とみて、太子を立宗の根本に位置付け、競って自宗派との関係をうたい、由緒寺院は創建の基を太子として権威化を図っているのである。
 元興寺は太子建立四十六ケ寺のひとつとされ、官大寺に列せられる事になるが、その由緒として、推古天皇勅願・聖徳太子建立を唱えたり、蘇我馬子と聖徳太子の関係深さを主張する。つまり、飛鳥寺・法興寺と斑鳩寺・法隆寺とは用明天皇と推古天皇により、蘇我馬子と聖徳太子に指名された「仏法興隆」の拠点たる『法興』と『法隆』の二寺なのであった。
 平城遷都に伴って「仏法元興之場 聖教最初之地」を主張するのもこの事が認められてきたからであった。源平の合戦を経て、鎌倉時代に南都復興が大々的に行われるが、その中で元興寺も復興勧進がすすめられた。
 その中心的な活動が極楽坊の独立であり、聖徳太子信仰の宣揚だったのであろう。すなわち、「重文・聖徳太子立像(孝養像)」、「県指定・聖徳太子立像(南無佛太子)」の造立であり、太子堂(明治期に消滅)の建立である。
 孝養像は、その像内納入品から、文永5年(1268)卯月八日(48日つまり釈迦生誕の花まつり)から一升ずつ千杯供養の勧進をすすめ、約五千人の結縁で、仏師善春が造立している。恐らく、太子生誕700年(1275)に向けての活動だったのであろう。
 また、南無佛太子像は、像内が明らかでないが、他寺院の銘文がある作などから考え、生誕750年(1325)が想定できよう。
 太子堂は、応永年間と伝えられているが、応永33年(1425)が生誕850年で、800年遠忌に重なっており、それに向けての動きであろう。その後、南都の太子堂とは、元興寺極楽坊のことを言うようになるのだ。
 現在、「太子堂」や「太子伝」などを失ってはいるが、優秀な「孝養像」や「南無佛太子」の存在が聖徳太子信仰の高まりを物語っている。
 因みに、孝養像とは、16歳像とも呼ばれる美豆良に結って官服に袈裟、横被を付け、柄香炉を持つ姿で、用明天皇(父君)の病気平癒を祈る姿なのか、それとも葬送の姿であろうか。明確ではないが、僧俗一体の姿ではある。
 一方、南無佛太子像は2歳像ともいわれ、幼児姿で、腰袴だけ付け、合掌するもので、215日の出来事を表していると言う。つまり、この姿は釈迦誕生佛からの発想であり、始めと終わり、「南無佛」、すなわち釈尊入滅の涅槃会を意識しているのだろう。

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