法輪館(収蔵庫)の収蔵品
国宝 五重小塔(奈良時代)
   光明皇后の発願により建立された元興寺西小塔堂に安置されていたといわれるもので、現存する奈良時代盛期の五重塔としては唯一のものとして著名である。
 軸部は等間隔三間で、初層から上に従って三寸ずつ低減している。細部まで本格的な建築物であり、国分寺の塔の十分の一の本様(雛形)であろうという意見もある。
 近代を迎えるまでは、極楽堂の床を落として収蔵していたといわれる。
国指定重要文化財  木造彫眼 阿弥陀如来像 (平安時代)
 阿弥陀如来は西方十万億劫土の極楽世界で現在も説法を続けているとされ、無量寿仏・無量光仏とも呼ばれる。一般に、瞑想の姿(定印)、初天法輪の姿(説法印)、通説法の姿(来迎印)の三形式があり、本像は両手とも第一指と第二指を稔じて下生の印とした来迎相、すなわち上品下生の姿の半丈六像である。カヤとみられる材を⊥字形に組んで、一木から彫り、部分的に厚手に塑土を塗って調整して金箔を押している。十世紀半ばの南都における重厚な作域を示している。
 元興寺別院禅定院(興福寺大乗院が兼帯する)の多宝塔本尊が室町時代に移坐されたとする説がある。本像は明治を迎えるまで、極楽堂に安置されていたという。
 国指定重要文化財 寄木造玉眼 聖徳太子立像 文永五(1268)年
 聖徳太子は観音の化身・極楽引接の先達とする信仰は、太子の一代記を生み出し、その形姿の源泉となってきた。本像は孝養像と呼ばれるもので、太子十六歳の時、父用明天皇の病気平癒を祈る姿だという。髪を美豆良に結った青年太子は朱色の袍に腰衣を着け、七条遠山袈裟と横被を搭けて、右手で柄香炉を持ち左手をそえて、小指で横被をとめている。
 元興寺は「聖徳太子四十六ヶ伽藍之随一也」とする考えが成立し、南都の律僧達が太子信仰に拠って極楽坊をその拠点としたことが太子像造立の契機であった。
 文永五年、仏師善春等によって作られ、眼清ら僧俗約五千人による勧進結縁 で出来あがった事情が像内納入品によって明らかにされている。おそらく文永九年(1272)の太子生誕六百五十年を記念して造立されたのであろう。
元興寺の聖徳太子信仰について
 国指定重要文化財 木造玉眼 弘法大師坐像 (鎌倉時代)
 弘法大師空海は、延暦十四年(795)、東大寺戒壇において元興寺泰信和上を戒師とし、大安寺勤操の弟子として具足戒(比丘となる)を受けている。元興寺は泰範や仲継、護命僧正など空海と関係深い学僧がいた。
 空海は唐・青龍寺に留学して恵果阿闍梨から密教を相承して第八祖となったが、平安時代後期には真言宗宗祖として信仰されはじめ、鎌倉期の四百年遠忌から単独の祖師像が造立されるようになる。
 本像もその頃の作で、願主珠禅の願文によれば、大師の哀愍によって後生に兜率天(弥勒仏の浄土)に往生したいと述べている。弘法大師像は単なる祖師像ではなく、弥勒仏としても祀られている。像内には理趣経が朱書きされ、数多くの納入品が発見された。全国に数多くある大師像中の白眉とされる。 
元興寺の大師信仰について
 奈良県指定文化財 余木造玉眼 南無仏太子像 (鎌倉時代)
平安時代に記された聖徳太子の伝記では、太子二歳の二月十五日、乳母の手から離れ、東を向いて南無仏と唱え、七歳まで続けたという。合掌した手の中から釈尊の左眼舎利が出現したといわれ、法隆寺舎利殿にはその御舎利が祀られているという。
 和国の教主といわれた太子の仏教者としての誕生と舎利信仰が結びついた造像であろう。二歳児としての子供らしさと、聖なる賢者たる理知的な面相がいかんなく表現されている。
元興寺の聖徳太子信仰について
 木造彫眼 聖観音菩薩立像 (平安時代後期)
 聖観音とは正観音とも書き、オリジナルな観音菩薩のことである。観音菩薩(観自在菩薩)とは光世音菩薩とも称する。
 菩薩とは「悟りを求めて実践する人」を意味し、大乗仏教では大切な考え方とされる。
 その姿は、出家前の釈迦から生まれ、主に蓮花をもってその象徴とする。この像は、久安三年(1147)眉間寺僧道寂が大衆に勧進して造立をした一千仏の観音像、世に興福寺千体仏と称されるものの一体であろう。
元興寺の観音信仰について
 木造彫眼 不動明王立像 (鎌倉時代初期)
 不動明王とは大日如来の使者であると同時に、大日如来と同体の行者の象徴でもある。その姿はインド土着の民族に起源するとされて何種類かに分類される。本像は、平安時代の飛鳥寺玄朝(源朝)が記した粉本図様に近い。細身な形姿であり、繊細な切金文様などおだやかさが残っているので、藤末鎌初期の作であろう。
 元興寺の不動尊信仰について
 木造彫眼 毘沙門天立像 (鎌倉時代初期)
 毘沙門天は仏教擁護の四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)を総括して多聞天の別称がある。一般に宝塔を捧げる武身であらわされる。本像は図像的には増長天に近いが、京都・鞍馬寺等にはこの姿を毘沙門天とする伝がある。右手を腰に当てる姿が、五体(五輪)すなわち宝塔を捧げるに等しいとする。
 木造玉眼 薬師如来坐像 (鎌倉時代中期)
 薬師如来は、東方瑠璃光浄土で説法する過去仏とされ、医王如来とも呼ばれる。一般には左手に病を癒すための薬壺を象徴的に持っているが、持たない像もある。本像は、通形であるが、衲衣が右肘までかかり、足裏までおおわれている。また、光背裏には木彫の宝楼閣で瑠璃光浄土を表している。着衣の彫りは深く、寄木造りで親しみやすい安阿弥様(快慶の一門)である。
 元興寺の薬師仏信仰について
 木造玉眼 如意輪観音像 (鎌倉時代末期)
 
   さまざまな観音菩薩の中でも如意輪観音は、仏教的・密教的な観音である。如意宝珠の功徳と輪宝の威力で、一切衆生の世間財と出世間財を満足せしめる観音の象徴となっている。南都では、聖徳太子を救世観音から如意輪観音の化身と信ずるようになっていった。元興寺の太子信仰に関係する像であろう。檀像風に素地仕上げとした本像は、素朴ながらも端正な魅力にあふれている。
元興寺の観音信仰について 
木造 司録坐像 (室町時代)
 官服をまとい、書巻を開き読む態を示している。冥界への罪状認否を行うさまである。恐らく、宿院仏師の作と思われる。
 木造玉眼 地蔵菩薩立像 天文十五(1546)年
 地蔵菩薩は弥勒仏の出現までの末法無仏の間に、衆生を済度する菩薩として僧形の姿であらわれる。中世の南都では、春日社第三神(天児屋根命)の本地仏としても盛んに信仰され造立された。本像は、地蔵に通例の錫杖・宝珠を持たない。その先例は興福寺や矢田寺地蔵尊にある。本像の作者は、室町時代に木番匠に出自して仏師になった「宿院仏師」の定正の作である。
元興寺の地蔵菩薩信仰について
 木造玉眼 閻魔王坐像 (桃山時代)
 地蔵菩薩と閻魔王は同体であるとする信仰は平安時代末より一般に浸透した。地蔵尊の六道救済・引路菩薩としての性格と、閻魔王が冥界の王であるという評価が結びつき庶民に受け入れられることになった。通形は忿怒の形相にあらわされるが、本像はおだやかである。地蔵尊と一対で祀られた可能性が大きい。
 木造玉眼(欠) 泰山府君坐像 (桃山時代)
 冥界の裁判官として十王がいる。そのうち、五七日(35日)が閻魔王(本地=地蔵菩薩)、七七日(49日)が泰山王(本地=薬師如来)とされる。「預修十王生七経」による十王十法事に、七回忌・十三回忌・三十三回忌を加えて、今日も遺る十三法事(十三仏信仰)が確立するのは、南北朝時代である。地蔵尊と閻魔王・泰山王の組合せは、福智院の本尊地蔵菩薩の光背にもみることができる。
 木造玉眼 不動明王坐像 (江戸時代)
 不動明王は梵名アチャラタナータ、無動尊とも呼ぶ。五大明王・八大明王の主尊でもある。堅固不動の菩提心をあらわす。利剣と羂索を持って火生三昧に住し、煩悩・災難を降伏する意味を象徴している。本像は、生駒山宝山寺中興開山、湛海律師の作風に通じる一体とみられる。
 湛海和上は密教図像を忠実に写し、精神的高揚の中で彫刻・作画した。江戸時代の仏像彫刻では特出すべき作例を遺している。
 元興寺の不動尊信仰について
 木造 雨宝童子 (江戸時代)
 神仏習合のもとに生まれた尊格で、三界諸仏の根本をいい、求福除災に寄与する。普通は、右手に宝棒、左手に宝珠を持ち、頭上に五輪塔を頂く天女形であらわされる。本像はいま五輪塔を欠失しているが、柄香呂・団扇をもち、聖徳太子像に近い。伊勢・朝熊山金剛証寺像が有名で、大日如来と天照大神の習合した像であることを示している。律宗系寺院の守護神である。
 木造 弁才天坐像 (江戸時代)
 インドのサラスバティー河を神格化したもので農業神として尊崇された。我国では音楽の神・福徳神としても信仰されている。真言宗寺院では勧請鎮守とすることが多い。
 禅室南側に池の在った時期に中島に祀られていたものと思われる。
 陶製 僧形八幡神坐像 (江戸時代)
 八幡神は寺院伽藍の守護神として神仏習合した尊格の代表的なものであり、「八幡大菩薩」と呼ばれ袈裟をつけた比丘形に造られることが多い。本像は、国宝として有名な薬師寺僧形八幡神像(平安時代前期)の忠実な模刻像である。

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