国宝 元興寺極楽堂
 
  東室南階大房(僧坊)の三房(室)分を寄棟造、本瓦葺六間四面の聖堂に改造されたもの、僧坊の一室(極楽坊)の身舎部を内陣とし、東妻を正面として前面向拝とした鎌倉時代新和様の堂々たる建造物である。
 奈良時代の往生人智光、礼光両法師の禅室として、また、百日念仏講衆の往生極楽院として極楽堂、智光法師感得の浄土曼荼羅が祀られたので曼荼羅堂とも呼ばれた。
 南都における浄土教発祥の聖地として古来有名な堂宇である。
くわしくは、こちら
国宝 元興寺禅室 
 元興寺旧伽藍の東室南階大房(僧坊)遺構、四房(室)分を伝える。切妻造、本瓦葺四間四面の簡素であるが重厚な趣がある。
 僧侶が起居し、学修した官大寺僧坊の遺構で、平面図や雰囲気をよく保っている。建築様式としては鎌倉時代の大仏様を示しているが、構造材は奈良時代以前の古材を多く再利用されている。 中世には春日影向堂とも呼ばれ、近世に客殿、近代には学校舎にも使われてきた。
くわしくは、こちら
県指定文化財 小子坊(極楽院旧庫裡) 
 もと禅室の北側にあった、東室南階小子房の一部を改築して、北厨房あるいは台所と称された。 寛永三年(1663)極楽院庫裏として改築されたが、昭和二十四年(1949)本堂の南側に移転増築して極楽院保育所建物とし、さらに昭和三十五年(1960)現位置に移動して復旧された。古代僧坊の沙弥寮から近世寺院の庫裏へと変化した歴史、ならびに建築物としての価値を有するものである。  
泰楽軒 (茶室) 
   小子坊の西側に位置し、四畳半の茶室と三畳の水屋からなり、元興寺の古材と川崎幽玄氏の指物で構成されている。川崎幽玄氏の古材と春日杉への愛着が、伝承して磨きあげられた指物技術と相俟って見事な茶の空間となっている。
 露地庭も植栽は四君子を配し、石組みは奈良時代の元興寺鐘堂礎石をはじめ鞍馬石、白川石などを集めて見応えのあるものとなっている。

四畳半茶室  
 
三畳水屋
通常は非公開
  見学・使用したい方・・・要予約 (元興寺までご連絡ください) 
重要文化財 東門 
 元興寺極楽坊の正門として、応永年間に東大寺西南院四脚門を移建したことが記録から知られている。鎌倉時代風の立派な門である。
 元興寺東室南階大房が極楽堂と禅室に大改造され、東向きの中世寺院として性格を改め後の元興寺極楽律院(南都極楽院)へと変遷してゆく契機となるものである。興福寺大乗院門跡の指図による復興事業の一環であったと思われる。  
史跡 元興寺境内 
 元興寺旧伽藍のうち、僧坊と講堂の一部を伝え、中世には元興寺極楽坊、近世には南都極楽院と称された寺域である。
 他には、史跡元興寺塔跡(東大塔院五重塔の基壇)、史跡小塔院跡(西小塔院の一部)が国の指定を受けているが、大部分は街路、民家の下に埋もれている。なお、鐘堂跡の礎石1基、講堂跡の礎石3基を発掘地から運び入れ保存している。
 また、昭和63年に整備した浮図田(ふとでん)(石塔、石佛群)には、興福寺大乗院門跡墓所に関連して祀られた、中世から江戸時代にかかる供養石造物1500基が保存されている。
 毎年 8月23日、24日には地蔵会万灯供養として灯明皿による総供養がなされ、ならまちの夏のおわりを象徴する祭りとなる。境内図はこちら 
元興寺の瓦 
 極楽堂の北流と西流、禅室の南流の東側の屋根瓦は、一般の本瓦と少し趣が違う。つまり、丸瓦も平瓦も重なり合って葺かれている。飛鳥時代(法興寺創建)の古式瓦を伝えている。法隆寺玉虫厨子の屋根表現はこの丸瓦を意識している。他に、京都東寺の講堂屋根の一部、深草宝塔寺の多宝塔下層、貝塚孝恩寺の釘なし堂、大分富貴寺大堂などにも残っている。

 元興寺の場合、解体修理の結果、使用可能な古瓦(飛鳥時代からの瓦)を集めて使用していることがわかっている。また、極楽堂西南隅、禅室南東隅には古代の軒平瓦が残っているのも注目したい。

かえる石
 元興寺の境内北側にあるガマガエルのような石は、古くから有名な奇石で蛙石と呼ばれている。現在この蛙石は、以前にかかわった有縁無縁一切の霊を供養して極楽カエルへ成就している。極楽堂に向って誓願をたてた極楽カエルは、今や「無事かえる」「福かえる」衆生の願いを聞いてくれる。
くわしくは、こちら  
万葉歌碑  
 白珠は 人に知らえず 知らずともよし
知らずとも 吾れし知られば 知らずともよし

  (万葉集巻六 一〇一八 元興寺僧)
  (歌碑揮毫者 杉本健吉)
 本田義憲先生監修 解説  
(奈良市に万葉歌碑を建てる会専門委員・奈良女子大学名誉教授)

 天平10(738)年の歌。飛鳥から移った「平城(なら)の明日香」の「元興寺の里」はロングスカートの才媛たちの寺詣ででも華やぎました(巻六992)。僧団には、三論学の学匠、浄土曼荼羅説話などにものこる智光たちもありましたが、この歌は、その中のひとりが「独覚多智」でありながら、人にみとめられない才学を自嘆した、という一説を左注します。「独覚」は、独り覚(さと)る、必ずしも簡単でない漢訳佛典語ですが、いま特に問いつめる要もないでしょう。
 白珠は、真珠貝の秘める珠、ひろくは白く美しい石や玉、恋歌ではしばしば女人の譬喩、いまは作者自身、その秘める世界を譬(たと)えます。白珠の真価は人に知られない。人は知らなくても、ままよ。自分さえよく知っておれば、人は知らなくてもままよ、かまわない。
「人知らずして慍(いか)らず、」(『論語』)とでもいうのでしょうか。
 歌の形は、旋頭歌(せどうか)577・577。しばしば問いと答えと相対し、あるいは類句を繰り返しても謡われましたが、天平時代には流行が去っていました。いま、その古い形でしきりに同音同句を繰り返すのですが、しかし、「白珠」「知る」は、古い恋歌に女身を得るという意味に使った表現の型を離れて、知的に知るという新しい意味に転じました。「よし」は原文それぞれ「縦(よし)・任意(よし)」、人の判断、みとめたくないそれをかりに受け容れながらも、心なしか自問自答的に自身の思いにうなづき、執拗にそれを通そうとしています。
 天平僧団知識階級内部の歌。いま、何はあれ、元興神(がごぜ)の鬼をめでた舞わせてもみましょう。 
獅子国型佛足石
 境内南側に石塔・石仏を並べた浮図田(フトデン)の正面に、75p四方・15cm厚の庵治石を陰刻した佛足石が据えられている。
 佛足石は、古代インド仏教圏で仏像無き時代の、仏陀そのものを象徴する、生きた釈迦の両足尊として信仰された。
 本来、信者は足跡を両手で仰ぎ、頭を付け礼拝したという。手を触れるだけでも有難い功徳があると信じられてきている。日本では、釈尊信仰や戒律の復興期に造立されている様だ。今がその時とも考えられよう。
 獅子国(スリランカ)の佛足石は、足跡に聖なる紋章を表し、大傘が差し掛けられるのが特徴的だ。スリランカ国と当寺との有難いご縁と深い友好関係を記念して開眼供養された。造立の経緯は佛足石側面に刻まれているが、再録すれば次の通りである。
 奉造立獅子国型佛足石一躯
 祈念日本スリランカ両国友好親善
 為コロンボパパの会関係物故者追善菩提
 祝マヒンダ社会福祉センター創立30周年記念
 祝壬辰華甲祈念
 維時平成24 2012年10月吉日
 真言律宗元興寺住職辻村泰善
 大工西村太造
 図師佐藤亜聖
 梵字キャ・カ・ラ・バ・ア 和南
 元興寺の開運 空風輪撫で石
  『キャ・カ・ラ・バ・ア』『ア・ビ・ラ・ウン・ケン』の五大五輪思想は、「頂上キャ(またはケン)(梵字)は等空不可得。額上カ(またはウン)(梵字)は因業不可得。」を顕現しているもの。いわゆる五輪塔の上部で、宝珠と半球を組み合わせた形に表現されることが多い。
 現物のその石は、花崗岩製の一石で径33p 高42p下端に臍なし、元興寺浮図田のほぼ中央に別石の大型水輪の上に在り、本来なら鎌倉時代後期の等身大の五輪塔であったのだろう。下部の火・水・地輪等は、存在不明となっている。しかし、その量感は現存する元興寺五輪塔群の中でも親玉的存在であることを気付かせてくれる。
 宝珠形だったと思われる空輪は、尖りが無く、自然に磨滅したと言うよりも人々が撫でたり、削ったりしてこのような状態になったように感じられる。
 つまり、この石に何かを願い、触れて、霊力をいただこうした信仰をみる想いがする。
 中世の記録によれば、特別な五輪塔を削って、その一部を薬として飲むという風俗や、お守りや験担ぎとして所持する習俗もあったようだ。その背景には、五輪五大思想の空風観、頂上・額上の身体観があろうし、その塔の主人公に関わる謂れもあるようだ。また、その形態から想像をたくましくすれば、男性器に対する原始的な信仰の影がみえそうだ。
 手をかざしてパワーを感じるほかはない。
 さて、どこにあるのか、探してみよう!
 元興寺の五鬼
 元興寺の境内には水島石根作の5躯の鬼が存在する。平成10年頃に木津川市鹿背山在住の芸術家水島石根氏がテラコッタでつくられた5躯の鬼を持参し、境内の適当な場所に据えるように指示された。
 果てさて、いかがしたものか。元興寺のがごぜ(元興神)伝説は、民俗信仰として、様々な展開をするが、江戸時代に元興寺が配布したお札に「道場法師八雷変相」という図があり、「一面龍雷五魂悪魔降伏神像」とも記されている。なるほど、図像をよく観察すると、鬼面の小鼻に2鬼、頭の上に龍が取り付き、その上に小さな鬼が乗っている。つまり、五つの鬼面からなっている。道場法師とは、『日本霊異記』にある、雷の申し子で、元興寺の鬼を退治し、元興寺の墾田に引水した功により、童子から、優婆塞に、そして法師に出世した人のことである。
 水島先生は、どのような解釈で五鬼を作られたのか、奥深いものがあろう。鬼の姿はしているが、なんともユーモラスを感ずるものである。この鬼達も、がごじ(がごぜ)「元興神」の一族なのである。
 元興寺境内を注意深く尋ねてみると、五鬼の変化身を見ることができる。
 さて鬼さん、どこに隠れているの〜?もういいかい〜?
 まあだだよ〜
 よくよく探してみましょう。
 元興寺の盃状石
 盃状石(はいじょうせき)と言われるものが伝わっている。すなわち、石の表面に盃状の窪みを持つもので、自然的に、あるいは人為的にそのような型式になっているものである。元興寺では、奈良時代創建の講堂跡から発見された礎石(三笠山安山岩)の表面にもあり、中世の自然石供養塔ではお椀程のものが残っている。なぜその様な石を使用するのだろうか。
 民俗学の理解では、陰陽、凸凹の生殖器に由来し、生産、製造にかかわる古代信仰の名残ではないかという。つまり、石の窪みに別棒を突いて、性行為に真似、豊穣や、豊作、安産、子孫繁栄を願ったのであろうという。しかし、考古学上の発見状況によると、陰陽同時に発見されることはあまりないようだ。
 東大寺転害門の礎石は盃状石のあとがあり、古代信仰の系譜を伝えているようだが、周辺農家の伝承によれば、礎石の穴で、「よもぎ」を突いて汁にしたといい、その礎石で、刃物を研ぎ再生したという。すなわち、特別な石に対する霊力信仰、火山岩の実質効果、それに伴う信仰儀礼があったのであろう。
 奈良町の東、高畑破石町は、近世的な伝承があるが、「三笠山安山岩(カナンボ石)」の集積地であろうし、石に対する特別な信仰を伝えていると見るべきではないだろうか。元興寺の自然石供養塔で、盃状石はすべて「カナンボ石」である。花崗岩(奈良石)の盃状石供養塔はない。供養塔は正式には、花崗岩の五輪塔が相応しいはずである。それが、室町後期以降戦国より、圭頭型の自然石が好まれることになる。何故、許されるのであろうか、恐らく、その石が持つ力によって成仏できると唱導した高僧によるのだろう。つまり、春日山の風土に生まれたカナンボ石と、凸凹、陰陽、金胎、男女の固い絆が結びついて、過去から未来への道しるべとして造られ、究極の自然の存在たる石と人間のつながり、つまり、即身成仏の見事な象徴と観ることもできようか。

元興寺TOPへ