元興寺の名称・開基・開祖について
 元興寺の名称は
 『佛法元興之場、聖教最初の地』の言葉より起こったとされます。南大門には、元興寺の扁額があり、他には飛鳥寺、法興寺、建初寺、建通寺、法満寺とも標したと伝えられています。
 飛鳥寺→法興寺→飛鳥大寺→元興寺と名称及び性格を変えてきました。建初寺=桜井道場、建通寺=向原寺、法満寺=飛鳥寺の歴史を示しているのでしょうか、朝廷および天皇家が仏教を容認し、唐式の仏教政策を取り入れてから、遡って意味付けされたのだといえます。因みに、法興寺は『佛法興隆』の言葉からきており、法隆寺とは対の名称といえるでしょう。
元興寺の開基は 
 蘇我氏の氏寺としては蘇我稲目であり、蘇我馬子を本願とします。
 飛鳥大寺としては推古天皇勅願、聖徳太子創建と称します。 平城移建に際しては元正天皇、聖武天皇勅願と伝わります。
 極楽坊としては興福寺大乘院門跡孝覚大僧正を中興開基とします。

元興寺の開祖は
 佛法初伝の歴史から言えば、三論の初伝たる慧潅、法相の初伝といわれる道昭(照)です。

 元興寺流法相の祖で言えば、神叡、護命(勝虞)
 元興寺流三論の祖で言えば、智蔵、智光(礼光)
 真言宗の祖たる遍照金剛 弘法大師
 真言律宗の宗祖たる興正菩薩 叡尊思圓上人
 極楽律院の初代としては、光圓道種律師
 西大寺長老に初めて選任された賢瑜和尚栄順上人
 昭和中興開山による乗瑞泰圓大和尚
(辻村泰圓大和上)

 元興寺は、藤原、奈良時代は崇佛派の蘇我氏による仏教政策や、朝廷(僧綱)の管理下にある三宝常住の官寺でした。しかし平安時代になると、律令制度の崩壊によって、官大寺は無くなり、権門寺院でもある興福寺や東大寺の支配下に組み込まれました。更に鎌倉時代になると、元興寺は伽藍が解体し、堂塔が分散してしまいました。その中で僧坊遺構の極楽坊は室町時代には、興福寺大乗院の支配となり、坊主は己心寺(大安寺)門流(真言律の西大寺流)とされました。江戸時代には、西大寺直門として多くの重役を輩出しました。
 明治維新の回禄により門流が途絶え、無住化しました。しかし、昭和十七年より真言律宗大本山宝山寺の実質支配となり中興されることになりました。そして、戦後の文化財保護法や宗教法人等の制定によって復興されました。
 元興寺の歴史年表 
年号 西暦 法興寺・元興寺関係事項 関連事項
宣化三 538 仏教公伝
用明二 587 丁未の乱
崇俊元 588 蘇我馬子が飛鳥に法興寺の工を起す
推古元 593 法興寺に塔を建て仏舎利を納入する
推古二 594 三宝興隆の詔
推古四 596 塔ができ、恵慈・恵聡が入寺する
推古一五 607 法隆寺建立・遣隋使
推古一七 609 丈六釈迦像を金堂に安置する 道欣・恵弥らが入寺する
推古三〇 622 聖徳太子没
推古三二 624 観勒が最初の僧正になる 僧官職の設置
推古三三 625 恵灌が入寺して三論を講ずる
推古三四 626 蘇我馬子没
皇極二 643 山背大兄王一族滅亡
大化元 645 法興寺が中大兄皇子方の陣になる 大化のクーデター
大化二 646 道登が宇治橋をかける 大化改新詔
白雉二 651 塔露盤の銘
斉明三 657 盂蘭盆会を営み都貨羅人を饗する
斉明四 658 福亮が維摩経を陶原に講ずる(維摩会の起原)
天智元 662 道昭が帰国し、禅院を建て摂論宗を伝える
天智二 663 白村江の戦
天智九 670 藤原鎌足の家財をさいて法興寺に入れる
天智一〇 671 天皇の病により珍財を施入する
天武元 672 封戸千七百が施入される
弘文元 672 寺辺一帯が戦場となる 壬申の乱
天武五 676 大官大寺改名
天武六 677 多祢島人を饗する(同一〇年にも)
天武八 679 薬師寺建立
天武九 680 法興寺を特に官治の寺とする
天武一二 683 僧綱制制定
天武一四 685 法興寺に行幸し珍宝を施入する
持統二 688 蝦夷を饗する
文武四 700 道昭が禅院で没
大宝元 701 大宝律令頒布
和銅二 709 智光法師河内に誕生す
和銅三 710 平城遷都
和銅四 711 法興寺禅院を平城に移し禅院寺とする
養老二 718 法興寺を平城に移し元興寺とする
養老三 719 神叡が入寺し封五十戸を賜る
養老六 722 金堂造営説あり
天平元 729 長屋王が元興寺大法会の司となる 長屋王自殺
天平五 733 隆尊の請により栄叡・普昭が入唐する
天平八 736 婆羅門僧正の仏舎利を小塔院に納める
天平一三 741 国分寺建立の詔
天平一五 743 大仏造立の詔
天平一九 747 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』が提出される
天平勝宝元 749 拓殖郷懇田を買得する
天平勝宝元 749 墾田所有の限界を二千町と定める 拓殖郷墾田を買得する
天平感宝元 749 経典転読・購読料として布稲墾田が施入される 行基没
天平勝宝四 752 隆尊が大仏開眼で講師をつとめる 智光が『摩訶般若波羅蜜多心経述義』を著す 東大寺大仏開眼
天平勝宝五 753 この年または翌年近江愛智荘を買得する
天平勝宝八 756 石川年足・池田王を講経のため元興寺に遺す
天平宝字元 757 五重大塔が建立されたという
天平宝字四 760 隆尊没
天平神護二 766 円興が法臣、基真が法参議となる 道鏡法王となる
天平神護三 767 称徳天皇が行幸し綿等を施入する
神護景雲四 770 百万塔を小塔院に納める
宝亀一一 780 飛鳥寺に封百戸を加える 慶俊が食堂を造る
延暦三 784 長岡遷都
延暦一三 794 平安遷都
延暦一七 798 十大寺の三綱の従僧数を定める
延暦二一 802 三論と法相の争いを止める
延暦二四 805 最澄帰国
弘仁元 810 薬子の変
弘仁三 812 空海の高雄山寺灌頂会に元興寺泰範らが参加する
弘仁六 815 慚安が『法相灯明記』を著す
弘仁一〇 819 護命らが最澄の大乗戒壇設立に反対する
弘仁一三 822 最澄没、比叡山戒壇許可
弘仁一四 823 空海東寺を与えられる
天長五 828 泰善が文殊会を始める
天長七 830 護命が『大乗法相研神章』を著す
承和六 839 渡唐僧円行・常暁が帰国する
承和七 840 静安が初めて灌仏会を修す
承和一〇 843 本元興寺の万花会と万灯会の料を給する
承和一三 846 静安の始めた仏名懺悔の行事を天下に広める
嘉承元 848 円仁の常行三昧堂
天安二 858 『元興寺縁起』(『仏本伝来記』)が書かれる
貞観元 859 延保が愛智荘を検田し報告する
貞観三 861 明詮が玉華院弥勒堂を建て竜華初会を修す
貞観六 864 僧位制定
貞観七 865 賢和が近江奥嶋に神宮寺をたてることを許される
貞観九 867 賢和が播磨魚住の船瀬修造を許される 賢和が近江和邇の船瀬を修造する
貞観一〇 868 明詮没
貞観一八 876 賢護が仏名会の画像を諸国に置く
元慶元 877 禅院寺を元興寺の別院とする
元慶八 884 藤原冬緒を元興寺俗別当とする
寛平六 894 遣唐使廃止
寛平三 903 義済が観音堂を建立?
寛平五 905 聖宝が東大寺東南院に入る
延喜九 909 聖宝没
延喜一四 914 安遠が『三論宗章疏』を著す
承平四 934 義昭が維摩会で良源と対論する
承平五 935 承平天慶の乱
天慶元 938 空也の念仏
天徳元 957 大和の不動穀を元興寺ら十七寺に頒つ
康保元 964 勧学会始め
康保四 967 摂関常置の始め
安和二 969 義昭没 源信『往生要集』
寛和元 985 源信『往生要集』
永延元 987 円融法皇が七大寺を巡礼する
正暦元 990 右大臣藤原実資が元興寺に詣でる
長保五 1003 別当扶公が能治の功により法橋となる
寛仁二 1018 阿闍梨定心が七大寺を巡礼する
治安三 1023 藤原道長が七大寺を巡礼する
長元二 1029 智真が別当になる
長元八 1035 『堂舎損色検録帳』
長暦三 1039 真範が別当になる
永承六 1051 前九年役(〜康平二)
永承七 1052 末法第一年
康平元 1058 元興寺僧都といわれた成源没
康平三 1060 愛智荘の非法停止を訴えた解文あり
治暦二 1066 元興寺大僧都が伊賀築瀬郷を開発する
延久三 1071 三論長者が東大寺東南院に定着する
承暦二 1078 永算が修造の賞として法橋となる
応徳三 1086 白河院政始まる
永長元 1096 大乗院開基
承徳二 1098 円昭が禅院敷地として私領を売却する
康和元 1099 智光曼荼羅を藤原師通の法会に出す
康和五 1103 永観『往生拾因』
長治元 1104 僧坊に強盗が入り放火する
嘉承元 1106 大江親通『七大寺日記』
天永元 1110 寺辺の草庵にいた願西が没する
永久年間 頼実が禅定院の堂舎を建てる
保安元 1120 百日念仏講に列していた竜華院僧が没する
天治元 1124 良忍の融通念仏
大治四 1129 寛信が元興寺修理の功により権律師となる
保延二 1136 禅定院主は大乗院主が兼ねるのが例となる
保延四 1138 『愛智庄検田帳』
保延六 1140 大江親通『七大寺巡礼私記』
久安三 1147 明海別当となる、『日本感霊録』書写
平治元 1159 平治の乱
長寛三 1165 慈俊の『元興寺縁起』私勘文
嘉応三 1171 慈経の極楽房百日念仏講への寄進柱刻文
安元元 1175 法然の専修念仏
安元三 1177 蔵俊が別当となる
治承四 1180 南都炎上、玉華院が兵火にかかる
養和元 1181 禅定院が興福寺寺内に擬せられる
寿永三 1184 仏師定慶が元興寺面を模して散手面を作る
文治元 1185 東大寺大仏開眼に元興寺僧が参加する 後白河法皇が極楽房曼荼羅堂を行道する 平氏滅亡
文治二 1186 範玄が別当となる、玉華院再興勧進
建久三 1192 『建久御巡礼記』が書かれる 鎌倉幕府開く
建久七 1196 本元興寺が炎上する 元興寺像を模して神護寺中門二天像ができる
建久八 1197 本元興寺焼跡から仏舎利出土 極楽房百日念仏講の日課と追修繕根式がある
建仁元 1201 宗実の柱刻寄進文 貞慶の弥勒講式と信長の弥勒講開修
承元三 1209 栄基の柱刻寄進文
建暦元 1211 玄恵の柱刻寄進文
承久三 1221 承久の乱
貞応元 1222 有慶の柱刻寄進文
貞応三 1224 荒神和讃、如意輪観音印仏 親鸞浄土真宗
安貞二 1228 元興寺領山城久世荘地頭職が停止される
貞永元 1232 五重大塔に落雷 貞永式目
天福元 1233 継春の柱刻寄進文
延応元 1239 行増が地蔵菩薩像三十余体を造立する
寛元元 1243 有玄が極楽房に水田地子を寄進する
寛元二 1244 別当東門印が修理のため水田を寄進する 極楽房を大改造する 道元永平寺
宝治二 1248 定凡が水田寄進(中門堂懸板銘)
建長五 1253 中三子らが屋敷寄進(中門堂懸板銘) 日蓮説法
正嘉元 1257 円照が元興寺僧房のため勧進
弘長元 1261 後嵯峨上皇らが七大寺巡礼
文永二 1265 伊王女が家地売却の柱刻寄進文あり
文永五 1268 聖徳太子孝養像が造立される
文永一〇 1273 小塔院旧蔵の釈迦如来像開眼供養
建治元 1275 隆全が供料田寄進(中門堂懸板銘)
弘安四 1281 叡尊の異国調伏に南都僧が参加 弘安の役
弘安六 1283 亀山上皇らが南都巡礼
弘安七 1284 阿願が屋敷寄進(中門堂懸板銘)
永仁元 1293 興福寺僧徒の争いのため寺辺が騒擾
嘉元二 1304 継実が屋敷寄進(中門堂懸板銘)
嘉元四 1306 善寂が屋敷寄進(中門堂懸板銘)
嘉元四 1306 極楽坊こけら経・折本法華経にこの年紀あり
徳治三 1308 元興寺が寺林の屋敷を買収する(中門堂懸板銘) 尼妙法が水田寄進(中門堂懸板銘)
応長元 1311 南大門前の屋敷が寄進される(中門堂懸板銘) 凝然『浄土源流章』
元亨三 1323 延実が畠地寄進(中門堂懸板銘)
正中二 1325 訓貞が極楽坊北裏地を春日社へ寄進する
正中二 1325 弘法大師像内納入法華経
元徳二 1330 鐘楼在地の所当が寄進される(中門堂懸板銘)
元弘元 1331 元興寺東側の地を買収する(中門堂懸板銘)
元弘三 1333 鎌倉幕府滅亡
建武三 1336 南北朝対立
康永元 1342 羽釜形納骨器
貞和元 1345 弘法大師像内納入結縁交名
貞和五 1349 位牌(〜永享)
正平七 1352 物忌札(〜文安二年)
貞治五 1366 番衆札(〜同七年)
応安以前 明興が極楽坊を入手し孝覚に進上する
応安元 1368 このころ光円が極楽坊に入り律院とする
康暦三 1381 夫婦和合・夫婦離別祭文
嘉慶二 1388 重然が極楽坊の仏壇を造替する
明徳三 1392 南北朝合体
応永年間 極楽坊に太子堂を造立する
応永四 1396 梵鐘を京都相国寺に移す 金閣上棟
応永一八 1411 東大寺西南院の門を極楽坊に移す
応永三四 1427 西誉聖聡が智光曼荼羅を見る
正長元 1428 正長土一揆
永享二 1430 同十二年ごろまで大和永享の乱
永亨八 1436 聖聡が『当麻曼荼羅疏』を著す
嘉吉二 1442 元興寺別当がこのころより東大寺から専ら出ることになる
嘉吉三 1443 元興寺辺で騒擾がある
文安元 1444 鬼園山に城を築く(〜長禄二年)
文安二 1445 納骨五輪塔(〜寛永三年)
宝徳三 1451 土一揆により金堂・禅定院・智光曼陀羅焼亡
長禄元 1457 禅定院再興、鵲郷地蔵堂成る
長禄三 1459 五重大塔を修理する
寛正三 1462 金堂を再建、中門仁王像焼けたが修理する
寛正四 1463 仏師春慶が禅定院観音を修理する
寛正六 1465 この前後に大乗院郷元興寺郷から有徳銭・小五月銭を徴す
寛正七 1466 金堂に新造弥勒像が納められる
応仁元 1467 中門に落雷し二天が破損 応仁の乱(〜文明九年)
応仁二 1468 極楽坊曼荼羅堂を修理
文明三 1471 極楽坊で病死者のための百万辺念仏あり
文明四 1472 強風のため新造の金堂が倒壊する
文明五 1473 寺辺の所々が放火される
文明六 1474 金堂を再建、極楽坊曼陀羅堂を修理する
文明七 1475 辰巳小路薬師堂を南大門東辺に移す
文明一一 1479 興福寺衆徒が西方院山に城を築く 筒井・古市らの兵が寺辺に出没する
文明一三 1481 極楽坊で千部経供養あり 一条兼良の納骨を極楽坊で行う
文明一五 1483 吉祥堂修理のための久世舞あり
文明一七 1485 徳政一揆により寺辺に放火などあり
長享元 1487 大塔二層目が破損、修理をする
延徳三 1491 このころ勧進久世舞・手猿楽等が行われる
明応七 1498 清賢が智光曼荼羅を転写する
明応九 1500 戦国争乱のため寺辺の町々が荒廃する
永正年間 このころより極楽坊に板碑・石仏が多い
永正一二 1515 投李の『極楽坊記』を順識が書写する
大永三 1523 大塔院観音堂でこのころ千部経あり
天文元 1532 一向一揆のため寺辺町屋焼亡する
天文一五 1546 極楽坊の地蔵像が像立される
弘治三 1557 極楽坊に蓮阿弥・西云の百万辺引付あり(〜永禄二年)
永禄三 1560 松永久秀多聞城
永禄一〇 1567 大仏炎上
元亀二 1571 極楽坊で女舞狂言あり(以後しばしばあり)
天正一〇 1582 本能寺の変
天正一三 1585 極楽坊で筒井順慶位牌所の手斧始めあり
慶長五 1600 関ヶ原の戦
慶長七 1602 極楽院・元興寺(観音堂)に寺領が下付される
慶長一〇 1605 小塔院の虚空蔵菩薩像が造立される
慶長一八 1613 奈良奉行設置
元和五 1619 奈良南部大火、元興寺災を免れる
寛永二 1625 袋中が『浄土最初曼陀羅略記』を著す
寛永九 1632 飛鳥安居院の堂宇が造られる
寛永一〇 1633 極楽院・小塔院が西大寺末として届出される
寛文三 1663 極楽院(小子房)が修理される
寛文八 1668 極楽院・西大寺49代長老賢瑜没
天和元 1681 飛鳥安居院の釈迦像が修理される
天和三 1683 極楽院尊覚が五重小塔を修理する
元禄四 1691 極楽院・西大寺51代長老尊信没
元禄五 1692 観音堂が修理され開帳する 大仏開眼供養
元禄六 1693 大塔九輪が修理される
元禄一一 1698 小塔院が修理される
元禄一四 1701 尊覚が『元興寺極楽院図絵縁起』を作らせ、また一枚摺り智光曼荼羅を板行する
宝永三 1706 小塔院の規式を定める
宝永四 1707 大地震により観音堂が破損する
宝永五 1708 大仏殿落慶法要
正徳元 1711 観徹が『智光清海曼荼羅讃』を著す
正徳四 1714 五重小塔が修理される
享保四 1719 極楽院・西大寺53代長老尊覚没
享保八 1723 櫛羅浄土寺の智光曼荼羅ができる
享保九 1724 小塔院が修理され、弁才天社が置かれる
享保一四 1729 大塔・観音堂が修理される
享保一五 1730 観音堂が開帳、極楽院尊弘没
享保一六 1731 念仏寺良長が異相本智光曼荼羅を板行する
元文五 1740 小塔院が開帳される
延享四 1747 智光一千年忌が極楽院で行われる
寛延四 1751 観音堂の上棟あり
宝暦八 1758 諦忍が『智光清海二曼陀羅合讃講述』を著す
宝暦一二 1762 大順が『当麻曼荼羅捜玄疏』を著す
明和六 1769 観音堂の修理が完了する このころ田沼時代
明和九 1772 本居宣長が飛鳥安居院を訪ねる 極楽院尊静没
寛政三 1791 大風により小塔院が小破する
寛政四 1792 屋代弘賢ら史料採訪を訪ねる
寛政六 1794 元興寺伽藍絵図ができる
享和二 1802 大塔付近に落雷する
文化一二 1815 五重大塔の修理が成り開眼供養あり
文政二 1819 極楽院・西大寺59代長老の尊員没
文政五 1822 大塔の修理が進行し、一枚刷塔図が板行される
天保三 1832 落雷のため大塔が破損する
天保五 1834 弘法大師千年忌が観音堂で行われる
天保六 1835 大塔が修理される
弘化三 1846 奈良奉行川路聖謨が極楽院・元興寺(観音堂)を巡見する
安政元 1854 大地震のため大塔・極楽院に被害あり
安政六 1859 毘沙門町より出火、大塔・観音堂が全焼する
慶応三 1867 観音堂の仮堂が建つ 王政復古
明治元 1868 廃仏毀釈の嵐を受ける
明治三 1870 寺領(朱印地)が没収される
明治四 1871 古器物保存方発足
明治五 1872 極楽院に学校ができる(極楽院学校→研精舎→鵲小学校)
明治一二 1879 寺院明細帳を提出
明治一六 1883 小学校が移転し、極楽院が真宗説教所となる
明治二二 1889 大日本帝国憲法発布
明治二四 1891 寺院明細帳を提出
明治三〇 1897 古社寺保存法制定
明治四〇 1907 醍醐本『元興寺縁起』が紹介される(大正一一年、国宝)
大正六 1917 極楽院に大谷派本願寺立女学校ができる
大正八 1919 史蹟名勝天然記念物保存法制定
昭和二 1927 大塔跡が発掘調査される(昭和七年史跡)
昭和三 1928 極楽院の女学校廃校となる
昭和四 1929 国宝保存法制定
昭和一〇 1935 このころ観音堂が再建される
昭和一八 1943 辻村泰圓が極楽院に入寺、禅室の修理が開始される(のち戦争のため中断)
昭和二〇 1945 太平洋戦争敗戦
昭和二一 1946 日本国憲法制定
昭和二三 1948 同地蔵会を復興する
昭和二三 1948 極楽院禅室の修理が再開される(〜二六年)
昭和二四 1949 極楽院小子房に保育所を開設する
昭和二五 1950 文化財保護法制定
昭和二六 1951 極楽院本堂が解体修理される(〜二九年) 宗教法人法制定
昭和二七 1952 極楽院節分会を復興する
昭和二九 1954 全日本仏教会結成
昭和三〇 1955 極楽院を元興寺極楽坊の旧称に復する
昭和三一 1956 飛鳥寺(安居院)の発掘調査あり(四一年史跡)
昭和三三 1958 極楽坊の環境整備・防災工事あり(〜三六年、四〇年史跡)
昭和三五 1960 極楽坊保育所を移転し、小子房を復旧する(〜四〇年)
昭和三六 1961 極楽坊に弁天社を建て弁天講を結成する
昭和四〇 1965 小塔院跡が史跡に指定される
昭和四一 1966 古都保存法制定
昭和四二 1967 元興寺仏教民俗資料研究所を設立する
昭和四五 1970 極楽坊収蔵庫が完成、諸修理ほぼ終わる
昭和五二 1977 元興寺極楽坊を元興寺と改称する
昭和五三 1978 研究所名を元興寺文化財研究所と改称する 中興開山泰圓没
昭和六一 1986 旧奈良市役所跡を発掘、寺関係遺品が発見される
昭和六三 1988 旧元興寺域が町並保存地域となる
平成三 1991 元興寺千塔塚を毀ち浮図田を作る
平成一〇 1998 元興寺が「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産に登録される
※参考文献『元興寺の歴史』(岩城隆利著)
元興寺の歴史
 (寺受付にてお渡しするパンフレットと同じ内容です)
  仏教公伝
 遠くインドの地で釈尊が開いた仏教が、中国・朝鮮半島を経てわが国に伝えられたのは、欽明天皇13年(日本書紀による壬申の年−552、一説には『元興寺縁記』による戊午の年宣化天皇3年−538)といわれます。

仏教受容をめぐる争い
 新しく渡来した異国の宗教の受容の問題をめぐって、当時の進歩派であった蘇我氏が崇仏を主張し、一方、保守派であった物部氏は俳仏を固執し、両者の対立が次第に激しくなり、仏教もそのためにいろいろな迫害を受けることとなりました。

蘇我馬子排仏派を破る
 しかし、用明天皇2年(587)になって、蘇我馬子はその甥の子であるとともに娘の婿にもあたる厩戸王(後の聖徳太子)とともに軍を起こし、俳仏派の頭領であった物部守屋を打ち破り、ようやくのことで日本の仏教受容の道を開くことになります。

飛鳥寺(元興寺の前身)の創建
 その翌年、馬子はその甥にあたる崇峻天皇が即位したのを機会に、高市郡の飛鳥の地にはじめて正式の仏寺建立に着手しました(588)。この寺がこの元興寺の前身である法興寺で地名によって飛鳥寺とも言われる寺です。
 百済の国王はこの日本最初の仏寺建立を援けるために仏舎利を献じたのをはじめ、僧・寺工・鑪盤博士・瓦博士・画工を派遣してきました。そのときの瓦博士が造った日本最初の瓦は、その後この寺が奈良の現在地に移った際も運び移されて、現在の本堂・禅室の屋根に今も数千枚が使用されています。特に重なりあった丸瓦の葺き方は行基葺きともいわれて有名です。

高市の飛鳥における飛鳥寺
 この飛鳥寺は、三論・法相の両学派が最初に伝えられてわが国仏教の源流となっただけでなく、蘇我氏を通じての大陸文化輸入の中心舞台となり、さらに政治・外交の場ともなったようです。いわゆる飛鳥時代の文化は、まさに飛鳥寺を中心として展開したといって過言ではないようです。

平城遷都と元興寺の移建
 元明天皇の和銅3年(710)、奈良に都が移されると、この寺も養老2年(718)には新京に移されて、寺名を法興寺から元興寺に改めました。その際、飛鳥の地名からとった飛鳥寺の名はそのまま継承され、かえって新しく移った元興寺の寺地が平城(なら)の飛鳥と呼ばれることとなりました。

平城(なら)の飛鳥
 有名な女流万葉歌人大伴(おおともの)坂上(さかのえの)郎女(いらつめ)は、奈良の元興寺の里を詠んだ次の歌を残しています。

 古郷之(ふるさとの)
  飛鳥者雖有(あすかはあれど)
  青丹吉(あおによし)
  平城之明日香乎(ならのあすかを)
  身楽思好裳(みらくしよしも)
  (万葉集6)

高市郡のあすかから奈良の新京へ移ってきた貴族たちにとっては、元興寺の伽藍が立ち並ぶ新しい奈良の飛鳥をめでる気持ちと同時に故郷あすかを懐かしむ気持ちも強かったのでしょう。

 大伴坂上郎女がこの歌を詠んだのは、天平5年(733)のこととされていますが、そのころには移建の工事も重要な部分については、ほぼ終わっていたかもしれません。大官大寺や薬師寺のような本来的な官寺を移すことでさえ大変なことであるのに、もともと蘇我氏の氏寺として建てられ、蘇我入鹿が誅戮されることもあって一時は高市の旧飛鳥の地へ置き去られようとさえしたこの寺が、8年もおくれてではありますが、にわかに奈良の地へ移建されることとなった理由、その財源などの問題は、憶測の域を出ないとしても非常に興味ある問題を持っています。

奈良の元興寺
 ともあれ、元興寺はたちまちにして移建工事を進捗させ、僧侶たちは依然として諸大寺の学問をリードして、奈良の新京における指導権を握ったようです。
 当時の伽藍を偲ぶものとしては、東大塔跡(史跡指定)・西小塔院跡(史跡指定)・極楽堂(国宝)・禅室(国宝)しか遺こっていませんが、今ひとつ収蔵庫に安置する五重小塔(国宝)は当時の西小塔堂の本尊、西塔そのものとされ、今に遺る奈良時代最盛期の唯一の五重塔として有名です。

 天平勝宝元年(749)には諸寺の持つ墾田の地限が定められ、諸大寺の新しい格付けが行われますが、その時、東大寺の4千町歩に対し、元興寺は2千町歩、大安・薬師・興福の諸寺1千町歩、法隆寺・四天王寺は5百町歩と定められました。当時の元興寺の位置を示すものといえましょう。

大仏開眼と元興寺
 天平勝宝4年(752)、東大寺の大仏が完成し、その開眼法要が営まれた時は、元興寺の隆尊が講師となってその宝前に華厳経を講じたのですが、その時元興寺の三僧が献歌を行いました。次の歌はその中の1首です。

    美那毛度乃(みなもとの)
    乃利乃於古利之(のりのおこりし)
    度布夜度利(とぶやとり)
    阿須加乃天良乃(あすかのてらの)
    宇太々天万都留(うたたてまつる)
   (東大寺要録)

 孝謙天皇・聖武大上天皇以下文武百官の居並ぶ大仏殿の式場でこの歌が朗詠披露されたことと思いますが、新京における元興寺が飛鳥寺と号していたことと同時に、仏教の源流を自負するこの寺の僧侶たちの心意気がたいそうよくわかります。

智光と智光曼荼羅
 奈良時代の終わりに出たこの寺の智光は、はじめ三論の学僧として有名でしたが、晩年浄土教の研究に専念し、日本最初の浄土教の本格的研究家として知られています。智光はまた、後に智光曼荼羅として有名な浄土変相図を遺し(2面・重文)、智光の住んだ僧坊の一坊が極楽房と呼ばれ、智光曼荼羅が本尊として祀られるようになります。

南都七大寺のひとつとしての元興寺
 平安時代の前半期までは、元興寺は南都七大寺の中でも各方面で指導的な役割を果たし、護命をはじめ数々の名僧を出して日本仏教の発展に寄与しただけでなく、お盆で知られる盂蘭盆会、釈尊の降誕を祝う灌仏会、組織的慈善事業の始まりとも思える文殊会、また仏名会なども、すべてこの寺から起こりました。
 当時の平安京に住む貴族たちにとっては南都の七大寺を巡礼することが心のふる里を訪ねることであり最上の楽しみであったようです。

 平安時代の後半になると官寺の支えであった中央政府の権力が衰えて、荘園、寺領からの収入が困難になり、天台、真言系の新しい寺院の興隆、貴族と特別の関係を持つ寺院の巨大化などにより、他の官寺と同様衰退の道を辿ることになります。

極楽坊の成立
 その崩壊の過程でひとり元興寺の命脈を支えることになったのが、智光の残した智光曼荼羅でした。藤原時代の後期になって法隆寺の僧坊の一部が改造されて聖徳太子を祭る聖霊院がつくられたころ、この寺でも僧坊の一部が改造されて智光曼荼羅を祭る極楽坊が成立しました。折から澎湃として起こる浄土信仰の波に乗って、この一画が極楽坊と呼ばれるようになり、僧坊の一部を改造した極楽坊は極楽堂とも曼荼羅堂とも呼ばれて南都系浄土信仰の中心となっていきます。

庶民に支えられた元興寺
 その頃になると、この寺を支えるものは政府でもなくて、むしろ無名の、庶民と呼ばれる階層の人たちが中心となったようです。鎌倉期以降の中世を通じてこの寺は智光曼荼羅を中心とする浄土信仰のほかに地蔵信仰、聖徳太子信仰、弘法大師の真言信仰などが入り交じった混然とした状態で群衆を集め、かろうじて近世にその伽藍と伝統を伝えることとなります。今に遺る聖徳太子孝養像(重要文化財)や弘法大師坐像(重要文化財)は藤原時代初期に作られた半丈六阿弥陀如来坐像(重要文化財)などとともに当時の信仰の様態をよく物語るものといえましょう。また、東門(重要文化財)が東大寺西南院から移されてくるのも、中世末期になります。

中世庶民信仰資料と元興寺文化財研究所 
 戦後、文化財保護法のもとで、史跡元興寺極楽坊境内が指定され、建造物・美術工芸品などの解体修理保存、防災工事などが重ねて行われてきました。
 その過程で発見された数万点を越す中世庶民信仰資料(重要有形民俗文化財)や仏像などは2棟の収蔵庫に保存されています。この稀有で貴重な資料の整理と調査保存のため寺内に、財団法人元興寺文化財研究所(特定公益増進法人)が設置され、今や全国各地の文化財保存、修理、調査を手がける民間唯一の研究機関となって、地道な活動と実績を上げています。

1998年、元興寺は、世界文化遺産「古都奈良の文化財」のひとつとして登録されました。

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